熱海 順・熱海 千恵ペア








車両解説
イギリスの誇る名車、MG Bのクーペモデルです。
先代のMG A フィクスドヘッドクーペが好調な売れ行きだった為デザインはかなり慎重に煮詰められたそうです。
MG Aでは取って付けたようなハードトップでしたが、このMG Bではフロントウィンドゥを大型化、その後ろになだらかに落ちるファストバックのスタイルとなりました。これによりグランド・ツアラーの名に恥じない快適性を手に入れ、ヒット商品となりました。
熱海 順・熱海 千恵ペア
イギリスの誇る名車、MG Bのクーペモデルです。
先代のMG A フィクスドヘッドクーペが好調な売れ行きだった為デザインはかなり慎重に煮詰められたそうです。
MG Aでは取って付けたようなハードトップでしたが、このMG Bではフロントウィンドゥを大型化、その後ろになだらかに落ちるファストバックのスタイルとなりました。これによりグランド・ツアラーの名に恥じない快適性を手に入れ、ヒット商品となりました。
高田 一夫・杉原 桂子ペア
ランチアというと、日本ではあまり知られていませんがモノコックボディや独立式サスペンション、V型エンジン、5速トランスミッション、風洞実験に基ずくボディデザインなどを市販車において世界で初めて採用したメーカーなんです。
このフルビアも独創的な狭角V型4気筒DOHCエンジンや当時は未だ珍しかった前輪駆動を採用しました。また、広いグラスエリアや上品なデザインなど上質なクルマに仕上がっているのも流石ですね。
1972年のWRCチャンピオンカーになるなどラリーでも大活躍をしその後のストラトスやデルタといった名車に続く「ラリーのランチア」のイメージを定着させたのもこのクルマなんです。
佐藤 宏樹・佐藤 直樹ペア
1960年代、高度経済成長によりマイカー時代に突入した日本。それに応えて日産自動車は1,000ccクラスの小型車を開発します。車名を一般公募するキャンペーンを展開し約800万通もの応募の中からサニーという名前が選ばれました。
発売当初は好調なセールスを記録しますがその後トヨタが新型車「カローラ」を投入、「プラス100ccの余裕」というCMのキャッチコピーは明らかにサニーを意識したものでした。
しかし日産も負けてはおりません。二代目サニーにモデルチェンジした際に「隣のクルマが小さく見えま~す」とやりかえし熾烈な販売競争へとなだれ込みます。
大内 康雄・大内 美喜子ペア
この当時バイクの世界ではすでに世界に名を轟かせていたホンダが最初に発売した乗用車がこのS500です。わずか500ccでもDOHCエンジンで1,000ccクラスよりハイパワー!時計のように精密だと世間を驚かせました。
しかしこのS500一年も経たずにS600へとバトンタッチ。わずか500台くらいで生産を終了してしまいます。マニアがうなるほどの貴重なクルマです!
ちなみに本田宗一郎さんは1989年にアジア人では初めてアメリカの自動車殿堂入りを果たしております。
千葉 天・千葉 奈津子ペア
今回、ヨタハチが2台出場してますから、前期型・後期型の見分け方のお話からいたしましょう。
1965年から69年までの4年間生産されたヨタハチですが、大幅なマイナーチェンジは無く外観上での見分けるポイントは少ないです。
例えば、フロントグリルのデザインの違い、バンパーのオーバーライダーのゴム部分の形、リヤのナンバー灯とバックランプが一体化されたのが後期型……と今話してる私もどっちがどっちかよく判ってません。それほど完成されたデザインだったという事でしょう。
齋藤 清・齋藤 アサ子ペア
イギリスの小さな自動車メーカーであったACカーズのスポーツカー「ACエース」にアメリカの大排気量エンジンを積んだクルマがコブラです。
ACエースが2リッターから2.6リッターであったのに対し初期型で4.2リッター、後には7リッターエンジンまで用意されました。
それにあわせてスタイルも端正なブリティッシュ・スポーツのそれからアメリカン・マッスルとでも言うべきマッチョな風貌へと変わりました。
ちなみに、今でもシェルビーコブラを新車で買うことが出来ます。そのお値段は…… 興味のある方は調べてみてください。
菅野 善光・菅野 えつ子ペア
長い歴史を誇るフェアレディの2世代目にあたり車名はミュージカル「マイ・フェア・レディ」に由来します。ちなみに初代モデルはアメリカ向けの左ハンドルしか生産されず名前も『フェアレデー』と棒線なんですね。
そしてこのSP310系で名前が『フェアレディ』になり、初めて右ハンドル車が生産されます。
1,500ccのSP310型でスタートしましたが、この1,600ccのSP311を経て最後は2,000ccのSR311へと進化し国内ゼロヨン最速の称号を暫らくの間死守します。
萱場 久美・萱場 匡子ペア
1961年に登場したジャガー・マークXが、5年後の1966年に420Gへとモデルチェンジします。と言っても変更点はごくわずかで、事実上のマイナーチェンジでした。
メインの市場であるアメリカの好みに合わせ当時のヨーロッパ車としては異例の超大型ボディが与えられました。大きく分厚いドアを軽く開閉するために補助スプリングまでも組み込まれていたんですよ。
先代のマークナインと比べて長く、広く、低くなり60年代に相応しい近代性とジャガーらしい優美さを兼ね備えたデザインは、今日まで続く各モデルに影響を与えております。
ちなみに、歌手のフランク永井さんも420Gのオーナーだったんですよ。
古原 武男・古原 佳奈ペア
シリーズ1とシリーズ2の違いは、外観上はヘッドライトのカバーが取り払われたことと、ウインカー等の灯火類が大型化されたこと、また特徴的だった3本ワイパーが一般的な2本ワイパーに変更された他それほど多くはありませんでした。
むしろ安全性や快適性の向上が主な変更点でシートのリクライニング機構が採用されたりブレーキの性能が向上、ラジエーターの大型化などが挙げられます。
広いとは言いづらい2+2クーペですが、走りを忘れたくないお父さん達から支持を受け、人気モデルとなりました。
加藤 有吾郎・志田 眞ペア
1961年、ジュネーブショーにて華々しいデビューを飾ったEタイプは、美しいボディラインのみならず当時としては夢のような最高時速240km/hを標榜し人々の憧れの的となりました。
その後1964年10月にマイナーチェンジを受けエンジンが3.8リッターから4.2リッターに変更されたんですが、見た目で一番の変更点は内装です。シート形状は見直され薄いバケットシートからたっぷりとしたクッションの容量を持ったシートへと変更されました。コンソールボックス兼肘掛も設置され快適性は飛躍的に向上しました。
ボディは2シータークーペと2+2クーペ、ロードスターの三種類がありますがどれも美しさでは引けを取りません。
山本 光幸・山本 美知子ペア
世界初のロータリーエンジン搭載車、そして「帰って来たウルトラマン」のマット・ビハイクルとしても有名なんですが、この車は初期型でして一年ちょっとの間にわずか343台しか生産されなかった大変貴重な1台です。
フロントグリルがウインカーと同じ縦幅、またドアの後ろのホイールアーチまでの間隔が狭いのが初期型です。
1964年に開催された第11回東京モーターショーにプロトタイプが出展されたのですが、この時当時の松田恒次社長が自らコスモスポーツのハンドルを握って広島から自走。帰りには各販売会社などを訪問したという武勇伝も残っています。
ちなみにオーナーの山本さん、ディアゴスティーニの週刊コスモスポーツを定期購読してまして、 1/8スケールのダイキャストモデルをコツコツと製作中との事です。
菅井 豊丸・大浦 克己ペア
この当時のホンダは、二輪四輪を問わずモータースポーツとは切っても切れない関係にありました。
創業者の本田宗一郎氏は、子供の頃から「自分の造った自動車で世界のレースを制覇するのが夢」だったそうですが、F1はもちろんスプリントレースから耐久レースまでありとあらゆるカテゴリーに挑戦し、子供の頃からの夢を現実にしていったのです。このエスハチも、そんな『ホンダイズム』を感じさせる一台です。
また、ホンダというメーカーは国内の他社に比べ早い時期から輸出に力を入れており、またホンダの高い技術はこの頃すでに海外でも賞賛を受けていました。モナコ王国のグレース王妃もエスハチのオーナーだったそうです。
江指 靖範・江指 加代子ペア
1966年に登場した初代ルーチェは、高級ツーリングカーをテーマに開発した上級セダンです。ライバルの日産・ローレルやトヨタ・コロナマークIIより2年早い先駆者的存在でした。
ボディデザインはイタリアのジョルジェット・ジウジアーロによるもので、エレガントなスタイリングとグラスエリアの広い開放的な空間を持ち合わせています。フロント・リアともに3人掛けの6人乗りで、広告でもこの点がアピールされていました。
初期の広告の「子供は法律上三人で(大人)二人と換算されるので、8人乗りも可能です」というフレーズは、当時の市場の要求をよく反映していますね。
1969年には2ドアクーペが追加されます。部分的にセダンのデザインを踏襲していますがロータリーエンジンや前輪駆動を採用、ほとんど別のクルマであります。
佐々木 進・佐々木 光子ペア
日産自動車で初めてフル・モノコック構造の車体を採用した車です。また当時の日産はモータースポーツにも積極的に参加しておりまして、1966年の『第14回東アフリカサファリラリー』に4台の「1300SS」で参戦。クラス優勝を果たしております。
この後の510ブルーバードやS30フェアレディZと並ぶ名車であります。初期型のスタイリングはピニンファリーナによるものだったんですが、ヨーロッパ調の尻下がりラインが日本人には不評で、この後期型では直線的なリヤデザインに改められます。
ちなみに、映画『ルパン三世 カリオストロの城』で銭形の父っつあんが乗ってたパトカーがこの型のブルーバードです。ですが、なぜかこのクルマの後ろには「バカボンのパパ」が座っております。
澤口 浩二・藤原 拓也ペア
歴代のトヨタ車で一番ピュアなスポーツカーは?と聞かれたら、私は迷わずヨタハチの名前を挙げます。
パブリカから流用された空冷エンジンは、出力たったの45馬力。それを超軽量構造と、空気抵抗少なくする事で、スポーツカーに仕上げたトヨタは凄いです。レースでもホンダのエスロクと熾烈なデッドヒートを繰り広げました。
この脱着式のルーフ、ポルシェ911に習ってタルガトップと呼ぶ方が多いんですが、実はポルシェより早く登場してるんです。ちなみに空冷エンジンの為、エンジンルーム内に室内暖房用のストーブが付いてるんですよ。
泉山 信兒・泉山 美由樹ペア
さあ、昨シーズンのウィナーの登場です!
言わずと知れた映画『007』のボンドカーですね。『ゴールドフィンガー』の他も数回登場しています。また、映画『キャノンボール』にもロジャー・ムーアのマシンとして登場しています。
アストン・マーティンといえばイギリス本国でも貴族階級の人しか買えないくらいもうべらぼうに高い車なんですが、現在に至るまで生産工程の大半を熟練した職人さんが1台1台手作業で行っているという事で採算はあまり重視していないそうです。
器用貧乏と言いますか、さすが英国と言いますか……しかしそういう所がアストンの持つ風格に表れているんだと思います。
大友 進・大友 夕子ペア
1900年代から30年代にかけて自動車史に残る傑作車を多数生み出した設計者であるフェルディナント・ポルシェ博士。ダイムラーやシュタイアといったメーカーに所属した後、独立。1931年に設立されたデザイン事務所がポルシェ事務所です。
戦後になって息子のフェリー・ポルシェらによって356が送り出され、自動車メーカーとして再スタートします。
プレA型から、A型、B型、C型と進化し、デザインでは特にフロントバンパーがだんだんと上に上がってきて、後の911への移り変わりを感じます。
菊池 洋・菊池 京子ペア
トライアンフのTRシリーズの中で一番人気があるのが通称「トラよん」と呼ばれるこのTR4ではないでしょうか?
これまでのTR1からTR3までとは大きく印象が変わりまして、同時期に販売されていた「ヘラルド」や「スピットファイア」と同様イタリアのミケロッティがデザインしたモダンなスタイリングが特徴、ブリティッシュスポーツカーの王道と言えるMGと対極にありました。
トライアンフの4輪車部門は1984年に100年に及ぶ歴史に幕を閉じてしまったのが残念ですが、最後のトライアンフであるアクレイムというクルマはホンダ・バラードの兄弟車だったんですよ。
澁澤 哲郎・木口 暢夫ペア
1936年に発売された初代チンクエチェントは、戦前・戦後を通じて約60万台が生産され大きな商業的成功を収めましたが、2人乗りであったことがネックでした。
こちらは1957年に発売された2代目のモデルで、「ヌォーヴァ」は英語の「ニュー」の意味です。初代より小さなボディで4人乗りを達成し、以後1977年まで20年間の長期に渡り約400万台も生産された戦後イタリアを代表するクルマです。
ちなみに映画「ルパンⅢ世 カリオストロの城」でルパンが乗っていたことで有名ですが、崖から落ちそうになってもガードレールを伝って路上復帰するのは非常に危険ですので、絶対にマネしないで下さい。
遠藤 俊行・千葉 清秀ペア
第二次大戦後、経済的に苦しかったドイツで大ヒットしたのがバブルカーと呼ばれる超小型車でした。その一つであるベー・エム・ヴェー イセッタを発展させたのがこの600です。
とかなんとか喋るよりドアを開けていただきましょう!どうですか、冷蔵庫みたいでしょ。これを見ただけで微笑ましくなる、とても魅力的なクルマです。
残念なことに1960年代になると経済も安定してきたこともありあまり売れなかったんですが、今でも熱狂的なファンが世界中にいるんですよ。